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三義民慰霊塔
江戸時代の末期 文化十一年(1814年)下田郷で大規模な百性一揆が起きました。
凶作にも拘わらず 年々重くなる年貢などに耐えきれず強訴を決意し 立ち上がったのでした。
一揆は藩内全域に広がったため 要求が聞き入れられ 年貢の減免と米一俵配給などで領内は再び落ちつきを取り戻しました。
それと同時に 主謀者は次つぎと捕らえられ葎谷の百性徳次郎と七蔵は斬首の刑に,処せられ ,忠右ェ門は領外へ追放されました。
時代は変わっても 身を犠牲にして多くの村人を救った義民に対してその恩を忘れず 昭和十四年に地元の有志によって立派な慰霊塔が建立されました。
処刑された五月十六日は 今でも毎年慰霊祭と春祭りが行われ遺徳を偲んでいます。
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長見寺の化茶釜
新屋の曹洞宗長見寺には 寺宝として不思議な古い茶釜が所蔵されています。長見寺は もと鹿熊にあって浄応寺と称していました。天正元年(1573)現在地に移り長見寺となったとき 伝来の茶釜も受け継ぎました。
この茶釜は奇妙なことに 住職にだまって檀家を廻ってお経を読み ご馳走になってくるという習性をもっていました。つまり 身代わり助っ人役をしたのです。
しかし 寺では後の禍を心配し 茶釜の蓋を墓に埋めてしまいました。
またこの茶釜 置いた場所を水を漏らさずに湿らせるという特性を持ち 防火茶釜とも呼ばれ「化茶釜」として近郷では有名な茶釜です。
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高岡船番所跡
村松藩の番所跡で 五十嵐川河畔の提外地にありました。
船で下田郷の産物を村上藩領三条方面へ運び出すときの「運上銭取り立て」を主な仕事としていました。
番所には定詰・吟味役・運上銭取立役の三名が常時詰めており 船運の許認可や新造船の船改めと 移出される薪炭類 石材 材木等ほとんどの物資(六十品目以上)から運上銭を取立ていました。
そのためか あまり郷民から好感をもたれず文化十一年の百姓一揆のときには打ちこわしに合いました。
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長禅寺
戦国時代には 寺の裏山に続く峰に高城という城が置かれました。
この城は 下田長尾氏の山城で城主は長尾豊景で その子の景久が支配します。
長禅寺には 父子二代の位牌が安置してあり ここが菩提寺と考えられています。 |